(6)~(7)【著者記録: 2003-2023】「小松左京賞設立前夜 (2)」

SFの新人作家を発掘するために角川春樹氏が発案した小松左京賞は、すんなりと設立されたわけではなかった。「小松左京マガジン」創刊号(株式会社イオ/2001.1.28)P.39から始まる第1回公募の選評において小松左京氏自身の言葉として語られている通り、小松氏自身が簡単には承諾しなかったのだ。

……(選評より引用)……
 第一回小松左京賞の創設に関して、私としては自らの名を冠した賞が生存中に設けられることには忸怩たる思いがあったが、角川春樹氏の強引(?)とも言える説得をうけて、この度の賞の創設となった。同時に、SFの現状が作家、読者いずれの要求をも満たし得ているとは言えないことを感じていただけに、本賞がその打破に多少なりとも貢献できればという思いがあったのも事実である。
……(引用終了)……

最初に角川春樹氏から話を持ちかけられたとき、小松氏は即座に断ったという。「作家が生きているうちにその名を冠した賞を設立するのはやめてほしい」と断りの旨を伝えたが、春樹氏はこれに対して「承諾を頂けるまで何度でもお願いに参ります」と答え、その後も、繰り返し打診を続けたらしい。
「小松左京がひとりで最終選考を行う」という独自のスタイルは、おそらく、この長い話し合いの末に生まれたものなのだろう。小松氏は、引き受けるからには好きにさせてほしいと提案しただろうし、春樹氏の人柄や信条を考えると「それでまったく構いません」と懐の大きさを見せたに違いないからだ。

この「最終選考は小松左京がひとりで行う」という話は、当時、賞の応募者間で誤解されて伝わっていることがよくあった。甚だしい場合には「応募作品のすべてを、小松左京がひとりで読んで合否を決定している」と信じ込んでいた応募者すら存在した。初回の応募総数は271編。400字詰め原稿用紙換算1000枚以内の上限枚数を遙かに超えて、4000枚もの大長編原稿を出版社に送ってきた猛者もいる。その後も、応募総数はこれに近い数字で推移していたので、普通に考えれば小松氏がひとりで読める分量ではなかったのだが、それぐらい「ひとりで受賞作を選ぶ」というスタイルは、特異なものとして応募者の頭に印象づけられたのだ。

小松左京賞の選考過程は、下記のようなものだった。
まず、角川春樹事務所の編集者や書評家が下読みを行い、一次選考で10分の1ぐらいまで数を絞り込む。二次選考で4、5本まで絞り、最終選考に上げる作品を決める。この最終選考候補作のみを小松氏がすべて読み、受賞作を決定するという流れである。
下読み委員のひとりであった大森望氏は、ネット上で公開していた日記を使って、リアルタイムでこのあたりの速報を伝えていた。したがって、最終選考の場に、小松氏だけでなく、主催出版社の編集者と下読み委員が同席していたのは当時からよく知られていた事柄だった。ただ、どの作品を受賞させるか? という最終判断は小松氏のみが下せる仕組みになっており、下読み委員が「こちらの作品を推したいです」と熱弁をふるっても、小松氏が「嫌だ」と答えれば絶対に通らなかった。

小松氏にしてみれば、春樹氏との長い討議の末にようやく了解した賞であるから、下読み委員がいくら別の意見を提案しても、自分が納得できないものを受賞させる気はなかったのだろう。そこで変節したのでは、賞を設立したときの条件に反する形になるからだ。したがって、最終選考に上がってきた数が少なくても「受賞作なし」になる年が、繰り返し発生することになった。

このように、小松左京賞は「小松氏が自らやりたいと言い出して設立した賞ではなかった」ので、小松氏本人が納得しなければ受賞作が出ないことは、賞の設立経緯からすれば、ある種の仕方なさを内包したものだった。小松左京賞は規定の応募枚数が多かった(初期には、400字詰め原稿用紙換算で1000枚まで。私が応募した頃には上限800枚で、のちに少し減る)ので、読むだけで気力も体力も奪われて大変だったという話を、私はデビューしたのち、複数の人々から何度も聞かされた。

当時の小松氏は健康状態がよいとは言えない状態で、毎年、選考のたびに「来年はもうやらない」「やめる」と繰り返していたらしい。賞を設立した春樹氏が、90年代半ばあたりから、たびたび出版現場を留守にせざるを得ない状況に陥ってしまったこともあり(小松左京賞の現場に直接的に関われなくなった)当賞は、小松氏個人の奮闘と、主催出版社の社員と下読み委員の働きで支え続ける多忙な10年余となった。そのような状況の中で私が受賞したのは、第4回募集時、2003年の夏である。