ウォーレン・ジヴォンとは ― Profile

 1947年1月24日シカゴ生まれの、ロック系シンガーソングライター。
 「ロック界のサム・ペキンパー」と呼ばれることもある、ハードボイルド派の孤高の音楽家。

 ジヴォンの一家はロシアからの移民で、父親は流浪の旅を続けるギャンブラーだったらしい。ジヴォンが中学生の頃にはロサンゼルスに落ち着き、ジヴォンはこの頃からクラシック音楽を学び始める。同じ頃、やはりロシアからの移民であったストラヴィンスキー(『火の鳥』や『春の祭典』で有名な作曲家)の元を訪れて学んだこともあるらしい。

 クラシックを勉強したものの、ジヴォンはその方面には進まず、フォークからロックへと興味の対象を移し、本格的に活動するためにニューヨークへ出た。だが活動状況は芳しくなく、再びロスへ舞い戻り、以後はここを拠点に音楽活動を続ける。この間、「Lime & Cybelle」というデュオで、短期間活動したり(ジヴォンと Violet Santangeloという名の女性シンガーとのコンビだった)バッキング・ピアニストとして生計を立てる。

 1969年ソロのデビューアルバム『Wanted Dead or Alive』を発表。その中の一曲「She Quit Me」が、映画『真夜中のカウボーイ』のサウンドトラックに収録されて注目を浴びるが、ジヴォン自身のアルバムの売れ行きは低調だったという。
 1976年、親友ジャクソン・ブラウンの口利きで、アサイラムとの契約が成立。ブラウン自身のプロデュースで再デビューが決定。『さすらい (Warren Zevon)』を発表する。

 その後『エキサイタブル・ボーイ (Excitable Boy)』(1978)(このアルバムの中では「ロンドンの狼男」が有名)『ダンシングスクールの悲劇 (Bad Luck Streak In Dancing School)』(1980)、『炎のL.A.(Stand in the Fire)』(1981ライブ盤)、『外交使節 (The Envoy)』(1982)、『A Quiet Normal Life』(1986ベスト盤)、などのアルバムを発表。この時期、イーグルスやリンダ・ロンシュタットなどの多くのアサイラム系アーティストと交流を持ち、現代アメリカの現実的な荒々しさを感じさせるハードな歌詞内容ゆえに「ロック界のサム・ペキンパー」との異名を取り「ハードボイルド派ミュージシャン」として認識されるようになる。旧友ジャクソン・ブラウンはジヴォンのことを「ソング・ノワールを最初に支持し、その擁護者にもなった男」と評している。

 だが、この時代のアルバムはいずれも大ヒットには結びつかず、アサイラムとの契約が終了。以後5年間、ジヴォンは音楽界から遠ざかる。

 しかし、ミュージシャン仲間との縁に恵まれていたジヴォンは、やがて音楽プロデューサーの紹介でR.E.M.のメンバーと知り合い、音楽性の方向に共通点を感じた両者の間でセッションが開始された。
 これがきっかけとなって、1987年、ジヴォンはヴァージンと契約を交わし、三度目のデビュー作とも言うべきアルバム『センチメンタル・ハイジーン (Sentimental Hygiene)』を、翌々年には『トランスバース・シティ (Transverse City)』(1989)を発表。90年以降はジャイアントと契約し、『ミスター・バッド・エクザンプル (Mr. Bad Example)』(1991)、『Learning to Flinch』(1993ライブ盤)、『Mutineer』(1995)を発表して、音楽界への復帰を果たした。96年には、2枚組・44曲を収録したベスト盤『I'll Sleep When I'm Dead (An Anthology)』が発売された。

 その後はアルテミスと契約。『ライフル・キル・ヤ(Life'll Kill Ya)』(2000)、『マイ・ライデス・ヒア (My Ride's Here)』(2001)、『Genius』(2002ベスト盤)と発表を続けるが、2002年9月、末期の肺癌に罹っていることが判明。残された時間をできる限り曲作りに費やしたいと宣言したジヴォンは、闘病生活を続けながら『My Dirty Life and Times』(発表当時の仮タイトル)のレコーディングを開始。2003年夏、そのアルバムのタイトルを『ウインド(The Wind)』と変更して発売。告知を受けた際には「余命3ヶ月」と言われていた人生を、彼は闘病生活によって約1年間生き抜いたが、同年の9月7日、昼間、自宅で仮眠を取った際に、そのまま眠るように静かに亡くなった。

 初来日は1977年。「ローリング・ココナツ・レヴュー」(※)に他のアーティストと共に参加。
 1988年にはライブのために来日した。



 ※「ローリング・ココナツ・レヴュー」:77年に晴海の貿易センターのドームで行われた日本初の国際的大規模イヴェント。4月8日〜10日の3日間開催され、ジヴォンは9日に登場した。このイヴェントでは、他に、ジャクソン・ブラウン、ジョン・セバスチャン、JDサウザー、ダニー・オキーフ、リッチー・ヘヴンス、エリック・アンダーソン、フレッド・ニール、ミミ・ファリーニャ、スタッフなどが出演。日本側からは細野晴臣、久保田麻琴と夕焼け楽団、ラストショウ、泉谷しげるなどが参加した。
 (情報提供:かものはしさま)

 ※米国Amazon(Amazon.com)のCDトップセラー・リスト(「Music」のコーナーにある)では、
『THE WIND』が、発売直後から一ヶ月間(2003.8.22-9.23)売り上げナンバー・ワンを記録した。

 ※米国では、亡くなった直後に、VH1 のドキュメンタリーが再放送された。
  ブルース・スプリングスティーンは、10日のライブの一曲目で、ジヴォンの「My Ride's Here」を演奏した。彼がライブでこの曲を演奏するのは初めてのことで、勿論、ジヴォンに捧げるためだった。
 (情報提供:伊藤さま)



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