(13)~(14)【著者記録: 2003-2023】授賞後の話 (4)

第4回小松左京賞の授賞式は10月1日だった。昨年は台風が直撃したので天気が心配だったが、私のときには、ありがたいことに晴天だった。
ただ、困ったことがひとつあった。授賞式はうれしいのだが、スピーチで何を話したらいいのかわからない。プロ作家が大きな文学賞を獲ったときにはいくらでも話すことがあろうが、新人作家のデビューでは話すことはあまりない。
困ったなあと思っていたら、第2回小松左京賞受賞者の町井登志夫さんは30秒ぐらいでスピーチを終えたという話を知った。
よっしゃ、これでいこうと思った。
30秒ではいくらなんでも短すぎるから、2, 3分ぐらい。それでええんとちゃうか。
 
実際、これでよかったのだ。
 
授賞式では、受賞者のスピーチよりも前に、会社の偉い人の話や選考委員による全体講評がある。小松左京賞でもそうだった。ところが小松さんの講評はめちゃくちゃ長くて、いつまでたっても終わらなかったのだ。途中で司会がストップを入れるほどの熱心さだった。対談のときに話した以上に、ここがよかった、あそこがよかったと細かくいろんな点を挙げ続け、「大人の女性が本格的なSFを書いて応募してくれたことがうれしい」「上田さん、小松左京賞に応募してくれてありがとうございます」と締めくくったのだった。
(あとで知ったが、こんなに長いスピーチは初めてだったそうだ)
 
小松さんから「応募してくれてありがとう」とまで言われたことは、私にとって非常に大きく重い言葉で、これは何がなんでもがんばらねばならない、プロ作家として早々に倒れたり消えたりしてはいけないのだと、ものすごく緊張した。
 
受賞者(私)のスピーチが終わると乾杯、そして、パーティー参加者の歓談が始まったが、受賞者は担当編集者に連れられて各方面への挨拶回りをせねばならないので慌ただしかった。書籍やテレビなどでしか見たことのない方々と顔を合わせ、今後ともよろしくお願いしますと挨拶して回った。著名人を目の当たりにしたという喜びや驚きを感じる暇はまったくなくて、とにかく慌ただしく会場内をぐるぐると巡った。
いまとなっては、どなたとお会いしたのかほとんど記憶にないのだが、富野由悠季さんにお目にかかれたのはびっくりした。当時、ハルキ・ノベルスからガンダムのノベライズ本(『∀ガンダム』。ノベライズ担当は福井晴敏さん)が出ていたので会場におられたのだ。
新井素子さんとも、このとき初めてご挨拶させて頂くことができた。角川春樹事務所の編集者氏に向かって、「授賞式までに受賞作が刊行されていないのはおかしい。出版社には改善してほしい点だ」と強調なさったのがとても印象的だった。当日に受賞作を配れたら新人にとって宣伝になるから、という意味である。見ず知らずの新人のために、ここまで考えて下さるのかと感動した。
「異形コレクション」シリーズの編纂者である作家の井上雅彦さんと出会ったのもこのときである。「(受賞作は長編だが)短編も書けますか?」と訊ねられたので、すぐに「はい、書けます」と答えた。井上雅彦さんは、当時、SFやファンタジーやホラーの新人賞授賞式に出席すると、受賞者に必ずこのように訊ねて、「異形コレクション」への原稿依頼の機会をうかがっていたそうだ。
 
読者として、名前しか知らなかった書評家の方とも何人かお目にかかった。
ある方から「書くのは早いほうですか?」と問われ、私は答えた。
「いえ、どうも時間がかかってしまうほうで」
「なるべく早く書けるようになったほうがいいですよ」
当時、プロ作家は一年に4冊新刊を出すのが理想的と言われていた。それぐらいの間隔で新刊を出せば、書店も読者も作家の存在を忘れないというのだ。
 
無理、と思った。
応募作は800枚程度の長編に一年かかった。
この頃のエンタメ小説分野には、まだノベルスという形態の本がたくさん流通しており、これが一冊あたりだいたい400枚ぐらい。年4回刊行するには一年で1600枚書く必要があった。四六判単行本だと、一冊あたりはもう少し枚数が必要で、500枚以上となる。
ひとつの出版社に頼らず、各社で仕事をもらって四六判単行本を年4回刊行するには一年で2000枚書く必要がある……という計算。

無理。絶対に無理。

あとで知ったが、この時代、年4回刊行できる作家はもうあまりいなかったようだ。速度の問題もあるが、10年前と比べるとさらに出版界全体が冷え込んでおり、それだけの仕事を見つけられること自体が、そもそも難しくなっていたのだ。ましてや、SF文芸界にその余裕はなかった。
小松左京賞受賞者の中では平谷美樹さんがダントツに筆が速くて、重厚な本格SFを書きつつ、この後、他ジャンルにも進出していくこととなる。デビューしたときにやはり「プロになったら年4回刊行を……」と聞かされて、それを目標に努力しておられた。本業を維持したままでの執筆だから、如何に早かったかわかる。
前回お名前を記した大迫純一さんも、やはり早かった。最速記録を聞かされたとき、ああ、やっぱり自分には無理な世界だと感じ、一年に4作というのはすぐにあきらめた。
自分にはまだそこまでの力はない。ミジンコ作家が無理を押し通そうとしても破綻するだけだ、と考えたのだ。