(28)【著者記録: 2003-2023】『華竜の宮』刊行へ向けて (5)

早川書房が毎年刊行している「SFが読みたい!」は、10月末刊行分までの書籍が投票対象になっているので、『華竜の宮』は、これにぎりぎり間に合うような形で発売された。おかげで翌年の2月刊行分の「SFが読みたい!」ですぐに順位が出て、2011年12月発表の日本SF大賞で候補入りするかどうか結果を待つばかりとなったのだが、2011年3月11日に東日本大震災が発生して、販売過程で大きな影響を受けてしまった。「こういう時期に、こういった大災害を扱った作品をどう語るべきなのか」という声がたびたびあがり(「いま作品として紹介すべきではない」「語るべきではない」などといった発言まであり)そのつど私は著者として困惑した。
 
刊行前・刊行直後の著者インタビューでもたびたび公言している通り、私は1995年の阪神淡路大震災の当事者なので、大災害とそれに伴う人災は自分の体験であり、この作品以前も、たびたび作品に反映させていた。
(部分的に反映させている作品、それ自体が主題になっている作品など、様々だが)
 
大災害が起きたらそれを連想させる作品は紹介してはならない、語ってもいけないという人たちにとって、おそらくSF作品とは「現実から隔離された完全な空想世界であり、完璧な箱庭世界」であって、それとは別に「現実と対峙している著者の体験や思考こそが作品の中心にあり、すべての源となっているSF作品」も存在するという数々の事実(そのようなSF作品は古今東西いくらでもある)――つまり、災害の当事者が、災害そのものと向き合いそれを題材としたSF作品を執筆する可能性を、かけらほども想像したことがなかったのではないだろうか。
 
非当事者にとっては「大変なニュース」にすぎない出来事も、当事者にとっては日常の一部であり、実体験のひとつである。それがどれほどの大事件であり、悲惨な現実が目の前で展開されていても、当事者は現場で生きていくしかないのだ。ときには、何ひとつ外部からの支援を受けられないままに。
 
災害や人災の体験について語る・語らないは当事者の気持ち次第で、それがいつなされ、どのような形でなされるか(直接的にせよ、抽象的にせよ)は当事者に任されるべきである。一生沈黙を守ってもいいし、ずっと語り続けてもいいし、その時期も、その形も、当事者が決めることだ。言論の自由とは、このようなときにこそ保証され、使われるべき言葉であろうと思う。
 
それはともかくとして、2010年秋口から2011年末までが、おおよそ「宣伝・販売される期間」にあたっていたはずの本作は、上記のような諸々から、営業の機会をほぼ逸してしまった。これはまったく想定外の出来事であり、作品に対する諸々の評価が固まるまでには、刊行から一年以上の歳月を待たねばならない事態に陥ったのだった。